罰則条項 予感はしていた。 やっぱりという気持ちが先立ちはしたけれど、胸の中を締める感情は残念だというものだった。 買い物袋を片手に戻った成歩堂を待っていったのは、空っぽの事務所。 当然、響也の姿は無い。 それなりに心遣いをみせる響也が、聞き慣れない飲物を告げた時点で、彼の意図が読めなかった訳ではなかったから、あの時強引に引き留め想いを告げる事も出来た。 それをしなかったのは、やはり臆病風に吹かれたと言ったところだろう。ハッタリと出たとこ勝負が信条の自分に、未だそんな部分が残っていたのは驚きだ。強引にこじ開けて『心』を覗き見る事など、弁護士時代から散々やって来た事なのに。 「やれやれ。」 自分にか、響也に対してか思わず出てしまう溜息。 ドサリと座り込んだソファーには、確かに響也がいたと思い返す。抱いていれば確かな手応えがあるのに、彼はスルリと自分の腕を抜けていく。 成歩堂は片手でぶら下げていた袋を、注意深くテーブルの上に置いた。何気なく視線を落とせば、ゴミ箱が目に付く。 王泥喜が来るまでは、山盛りになってからでないと捨てられる事のなかったそれは、常に底が見えるほどこまめに片付けられていた。 だから、今日のゴミも王泥喜が始末して帰った筈だ。しかし、そこには紙袋が突っ込まれている。 「あ〜まだ食べられるだろうに…。」 響也が霧人にと言っていた、お土産。…もとい、そのなれの果てを摘み上げる。 尚のこと潰れた紙袋は、響也の怒りを具体化したようで、しげしげと眺める成歩堂の顔に苦笑を浮かばせた。 そして、成歩堂の視線は吸い寄せられるように、テーブルに置かれたビニール袋に向けられる。暫く思案していた成歩堂はその両方を手にして立ち上がった。 何か思いついた宜しくない笑みを浮かべたまま、彼はもう一度事務所を後にした。 「こんな処まで、常識というものがないのですね。」 あの時、もう此処へは来ないで下さいと告げたはずです。そう言って、帽子についているバッジを眼鏡の端から睨み付ける男を成歩堂はニコニコと眺めやり過ごす。 ハァと大きな溜息が聞こえた。 ふたりの間に衝立は無い。霧人は眼鏡を指で押し上げながら大きく息を吐く。信じられないと告げる様に、左右に軽く頭を振る。 「君もそうだろうけど、僕もちょっとばかし融通が利くんだよ。」 そう告げると、薦められてもいなかったが、成歩堂は霧人と向かい合う椅子に腰を降ろした。さっさと帰るそぶりを欠片も見せない成歩堂を霧人はただ睨んだ。 「普通の囚人ならば、とっくに就寝をしている時間ですよ。」 「君だって起きてるんだから、いいじゃないか。」 「貴方と会う為に起きている訳ではありません。静かな夜を楽しむ為に起きていただけです。」 「うん。此処は静かだね。」 確かにと頷いてやったのに、霧人の機嫌は今以上に悪くなっていくようだった。我が侭な奴だと成歩堂はほくそ笑む。 「一体アナタは…「差し入れを持ってきた」」 霧人の言葉を遮り、ソファーの横にあるテーブルに袋を置いた。心底、いかがわしい物を見る目つきで成歩堂とそれを眺めていた。 しかし、そこに入っている瓶に気付いた途端、袋を引き下ろし中を確認した。 「これが、私への差し入れですか?」 品名を見て直ぐに察するあたりは、流石に兄弟だ。 「弟クンに頼まれたんだけど渡しそびれてね。君にあげる。」 ソファーの肘掛けに両腕を降ろし、椅子に体重を掛ける。ニコニコと笑みだけは絶やさずに眺めていると、霧人は眼鏡を押し上げふっと息を吐いた。 「また、何か悪さをしたんですね?」 「人聞きが悪いじゃないか、牙琉先生。まぁ、確かに、君へのお土産を駄目にしてしまったけどね。」 成歩堂の台詞に心底呆れたのだろう。霧人はそれ以上、文句を言ってくる事はない。推測だが、成歩堂が響也から取り上げて食べてしまったと思ったのかもしれない。そのお詫びに是を押し付けようとしたが、怒った響也は拒否した。そんな筋書きだろう。 ある意味間違ってはいない。食べてしまったのが、お土産ではなく彼本人だという事以外は。 「…だから、面会に来なかったのですね。」 呟きながら、霧人は綺麗な指先でミネラル・ウォーターの滑らかな曲線をなぞる。 それが酷く淫猥なものに、成歩堂は思えた。この男が、弟に向ける視線や感情は何処か成歩堂の感覚に触れる。常に絆と呼ぶには歪んで見えた。 「犯罪を犯した兄に世間の風当たりは強いでしょう。なのに、常に面会に来て私を労ってくれる、あの子は本当に優しい子です。 …だからこそ、隙さえあれば相手を貶める事を考えているアナタみたいな人間は、響也の側に相応しくありませんし、こんな汚れた世界にあの子は向きません。」 私が側にいたのなら、絶対に守ってやるものを。 声にならない霧人の言葉は成歩堂に聞こえた気がした。自分という檻の中に閉じこめて全てを奪って、霧人は弟を守っていたつもりになっていたのかもしれない。 彼は自分より弱いのだ、劣った存在なのだとそう思い込み、だからこそ自分は強いと自負していた。 そこに何の根拠もない。あるのは、“響也”が“霧人”の弟だという事実だけだ。 「それは違うんじゃないかな。」 事務所に謝罪に訪れてからの、響也との様々な場面が浮かぶ。 どんな時でも、彼に対して意地悪くなってしまう程度の嫉妬心を感じた。それはつまり…成歩堂が彼を(格好良い)と思っていたからだ。 「……彼は強いよ。誰よりも、強い人間だ。」 しかし、成歩堂の言葉にも霧人は眼鏡を押し上げ嗤う。 「アナタのものでもあるまいし…そんな断言に意味があるのですか?」 「僕のもの?」 ハハと成歩堂は帽子を押さえたまま、仰け反るようにして笑う。 「そもそも、彼はひとりの人間のものになんか、出来はしないじゃないか。」 天才と呼ばれる検事であり、ミリオンヒットを持つ国民的スター様。 それが、響也を示す肩書だった。それだけ聞いても、ひとりの人間が独占出来そうにはまるで聞こえない。 けれど、成歩堂がそうと告げるのはそれだけが理由ではなかった。 何度響也を抱こうとも、彼は簡単にその腕をすり抜けた。誰かに守られる事などなく、兄の罪も、友の罪も、そして、取り巻く現実とも響也はしっかりと向き合っていた。 誰かに、何かに、逃げ出してしまうような人間であったなら、こうまで成歩堂を惹きつけるはずがない。共犯だという想いだけで、彼に執着する事などない。 決して、響也は自分のものになどなりはしない。それが結論だ。 だからこそ、魅せられる。 だからこそ、己の腕に抱いていたい。心も身体も休ませてやりたい、それが一時の安らぎであっても。それが自分であって欲しいと願うのは、所謂ただの我が侭だ。 「まさか、君は彼を自分のものに出来ると思っていたのかい?」 成歩堂が眇めた瞳を向けた先、霧人の表情に笑みが浮かぶ。 「さあ、どうでしょうね。」 ゆっくりと眼鏡を押し上げる仕草。 絡みついているサイコロックの存在は、勾玉に触れていない成歩堂には見えない。だが、どうにもこの男の笑みが気に入らなかった。妙な優越感は、果たして兄弟であるというだけのものだろうか? しかし、時間とは容易に過ぎていくものだ。 近付いてくる職員の足音で、成歩堂は時間切れである事を悟る。霧人もまた、その事に気付いたのだろう、ニコリと笑みを深くした。 「やれやれ、やっと静かになりますね。」 椅子の背に肩から凭れ、両腕を肘掛けにのせたま指を重ねると、安堵の息を吐く霧人に、成歩堂はあからさまに眉を潜め、席を立つ。 「冷たいなぁ、せっかく会いに来た親友に向かって。」 そんな戯れ言を一体何年言い続けてきたのだろう。苦もなくつるりと唇から滑り出すほどに、それは馴染んだ行動だ。不機嫌そうに睨み返す霧人の仕草だとて、習慣のようなものだろう。 そうして、檻の入口で待つ見知った職員に向かって歩き出した。融通を効かせて貰っているとはいえ、規則違反も甚だしい行為。彼も成歩堂に早く帰ってもらいたいはずだ。苦笑いと共に、脚も早くなる。 普段ならば、無言のまま成歩堂を見送る霧人が、檻をくぐる成歩堂の背に言葉を投げた。 「私は貴方が響也に執着する意味の方がわかりかねますが、ね?」 成歩堂の中で答えは既に確信されたものだった。 けれど、霧人に答えてやる義務などない。ニコリと成歩堂は笑い、金属が閉じる重くて甲高い音を聞いていた。 「当ててご覧よ、センセ。」 content/ next |